超 自 省 録

時事、日中関係、社会問題について。会社員、オタク、二ヶ国語をしゃべるやつが、書きます。

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ソラリス -エントロビーと時間と生命-

Solarisはラテン語で太陽という意味だ。コンピューターに縁が深い人は、UNIX OSのひとつの名前として記憶しているだろう。またワイン通なら、「ソラリス」は日本産のプレミアムワインの名前として知ってるかもしれない。

毎年世界各国のGDPが何パーセント増えたとか減ったとかがニュースで取り沙汰されるが、いったい何が増えて何が減っているというのだろうか。高校物理で習う質量とエネルギー保存則を考えれば、なにも増えたり減ったりしないはずじゃないか。
そして時々耳にする「製造業は根源的な付加価値を生み出していて、金融業生み出さない」という議論があるが、どういう意味だろうか。無から有を生み出すことは、製造業にも果たして可能なのだろうか。形を作り変えているだけなのではないだろうか。


これらの疑問を突き詰めていけば、付加価値や経済成長とは「エントロピーの縮小」であるという結論にたどり着かなくてはならない。つまり付加価値とかGDPを生み出すということは、たかだか部屋を片付けるとか、グラウンドに散らばったボールを拾い集めるとか、土をレンガにして家を建てるとかという類のことである。なにも無から有を生み出してはいない。いうなれば製造業も金融業も「右から左へ流しているだけ」であることには変わらず、付加価値をつけるとかつけないとかという議論にに関してはまったく同列である。唯一別格の仕事をしているのは、太陽だけだ。太陽は燃えることで自らのエントロピーを増大させながら、地球という閉じた系に外部から負のエントロピーすなわち「付加価値」を絶え間なく注ぐ。負のエントロピー、というのは長くて言いづらいのでソラリスと言おう、太陽はソラリスを空から降らせているのである。

ところで、エントロピーとは結局どういう意味か。日本の古典平家物語の冒頭がこの上なく簡明に説明している。


園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

時間がたつにつれ、強者は衰え、美人は老醜し、雄姿を誇った建造物は、風化しくずれさっていく。世の中すべては移ろい変わり、果てにはみな等しく塵と化す。これを熱力学でエントロピー増大の法則と呼ぶらしい。

時間がたつとすべてが移ろい変わる、といったが、よくよく考えてみれば、われわれ人間が「時間が経つ」と呼ぶ現象そのものがエントロピーの増大ではないのか。つまり「取れたての魚は新鮮だ」とか、「次の一秒間の天気の予測よりも、来月の天気の予測が難しい」といった常識の裏には、時間が経たなければ物事は変化しないという前提があるのではないか。してかつ、われわれは時間の経過を物事の変化(秒針の移動とか、日没とか)を観察して初めて認識するのだから、結局のところ時間の経過と、物事の変化すなわちエントロピーの増大は同じことなのではないか。

物理単位系の定義を見てみると、やはり時間は光の移動とかで定義されているし、実務的には原始の崩壊で計られているから、時間と物事の変化は同じようだ。

余談だが、この国際単位系SIというのは読んでるとどうもトートロジーのにおいがぷんぷんするのだが、どうなの。エロい人教えて。)

ここにきて、時間の経過はすなわちエントロピーの増大であるということ(言い換えれば生命の死、物の崩壊、さらに経済社会においては価値の減少を意味する)がいえる。だから逆に、エントロピーの減少は持ち時間の増加または価値の増加といえるのではないか。価値をその目盛りである「お金」に置き換えれば、まさに時は金なり、というもうひとつの言い古された理にたどりつく。

ところで、生命とはなんだろうか。社会とはなんだろうか。それは存在するあいだ、エントロピー減少する系のことである。人も社会も毎年成長しているとしたら、エントロピーが減少しているということである。やがてはその系は、エントロピーが発散しきってしまい死んでしまうという運命は免れないにしても、今しがたの間は魅力があがり続けるということである。

(そういうたとえでは、中国は二十歳、日本は哀愁漂う三十路ということになる。)

時間はお金ではかれるだろうか。ほとんどの人が自分の時間を売っているこの社会で、NOと言う答えはありえないだろう。
生命はお金で測れるのだろうか。NOと言いたい人は多いだろうが、私はYESだと言いたい。生命が時間で測れることを考えれば、時間と等価のソラリスによって測れるはずだ。現に我々は交通事故ので亡くなって命を、裁判で賠償金という形で年がら年中測っているではないか。

時間と生命と付加価値、そしてその目盛りであるお金は、すべて等価だというのがこの記事の結論だ。それらをまとめて、ソラリスと呼ぼう。
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  1. 2008/09/14(日) 01:12:18|
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2.人間の目は何万画素か  ~CDとDVDの容量のお話~

 前回は目と耳、視覚と聴覚について話した。

 ところでそもそもAudioとVisualの実態はなんなのか。
 
 音は空気の疎密が伝える縦波であり、鼓膜で信号に変換され脳に伝わる。映像は電磁波のうち一部の周波数を、網膜・脳が認識して得られるものだ。電磁波について僕は理解していないので、よく説明できない。
 まあしかし、人にとって意味は、音がある物体の振動の仕方を報告しているのに対し、映像は物体の形そのものを伝える、ということで、間違いはないだろう。 

 ここからがこの文章のテーマだ。伝達する情報量という点で、視覚(Visual)の方が聴覚(Audio)よりもかなり大きいということは、想像に難くない。一体どのくらい情報量が違うのだろうか。定量的に知ろうと思っても、認知神経科学の教科書にはかかれていない。しかし、ちょっと考えればおよその検討がつく。
 
 具体的には、CDとDVDの仕組みを考えてみればいい。

なおここでいうCDは音楽CD、(CD-DA)のことだ

CDがはサンプリングという手法で音記録する。連続的で無限の情報量をもつ音(これは重要なことだ)を、一秒間に44千回測定し、結果を記録している。
 イメージとしてはこんな感じだろう
       
            左   右
一秒目1回目    13344 23355 
一秒目2回目    14133 20054
.
.
.
一秒目43346回目  00999 00223

 毎回のサンプリング結果を左、右チャンネルそれぞれ一つの数字ついて記録しているわけだ。言い換えれば、0から6万5千くらいまでの数字で、音を評価しているわけだ。なぜ通信簿のように5段階評価ではなく、6万5千段階評価なのかというと、一つには段階が細かい方がまあチガイワカルからという理由で、もう一つには2の16乗が6万5千(二進数16桁で済むから)という便宜的な理由による。

 ではなぜ標本採取(評価)の回数が44千回/秒なのかというと、それには「人間の聴覚が20千回/秒までの振動を聞き分けられるから&標本化定理で復元がうんたらかん・・・・」という理由がちゃんとある。

 ともかく、CDは毎秒44千×16×2ビットの情報で記録しているということだ。このことをもうすこしわかりやすく喩えてみよう。

 
 8ビットというのは、組み合わせ的にして256通り、ちょうど英数字1文字が表せる。16ビットにすると漢字もふくめ日本語一文字があらわせる。つまり、以下の三行の文字列はお互いに対応しているということだ。

00100110 11001110

a d



(対応はJISでもUNICODEでもなく、テキトウ)

やや乱暴だが、これを使ってCDの記録方式を書き直すと。

          左  

一秒目1回目    あ
一秒目2回目    穂
.
.
.
一秒目43346回目  蚊

というように書くこともできる。

右チャンネルの分もあるので、これでCDは日本語にして、毎秒44千字×2=9万字、毎分540万字の小説の大作に匹敵するくらいの情報量を記録してると喩えて説明することができるようになった。

DVDの方も考えてみよう。でも、めんどくさいから簡潔に書こう。

DVDは720×480ドットの絵を毎秒30枚記録している。圧縮やら形式やらのことを考えずに計算すると、これは(720×480=)35万画素×(一画素あたりRedGreenBlue計)3バイト×30フレームで、秒間約3000万バイト、つまり日本語1500万字分の情報量を持つ。 一分間にすると、実に9億字の情報量をもっている。DVD画質の映像を一分間見ることは、おおまかにいえば四庫全書、あるいは広辞苑級の辞書を数百冊を読み終えることと同じである。

DVDの方が、CDの200倍くらいは情報量が大きいことが分かったが、どっちもずいぶん多いように思える。我々が一秒間に読める文字などただだか数十個程度なのに、耳と目はそれを遥かに超えた情報量を取り入れている。・・・・*

 では、我々の目の解像度はDVDで十分なのかというと、そんなわけはない。考えてみるといい。オペラ座の怪人を、DVDとの生の舞台のどちらで楽しみたいだろうのか。あるいはサッカーの試合はハイビジョン放送と生観戦どっちがよりリアリティがあるのか。むろん後者である。

 人間の目には椎体細胞が600万~700万個あるから、目の解像度は700万画素程度だという説がある。それじゃ、人は最新の一眼レフデジカメの写真を目の前にプリントしておいたら、真実と勘違いするのかというと、そんなことはない。人の目は、700万画素程度の静止画では騙されない。ましてや、35万画素のDVDの情報量など圧倒的に足りないのだ。

 なぜならば本来、演劇、絵画、スポーツ観戦は、細部に注目したり、自分の水晶体で光学ズームしたりすることができるからだ。しかも、どこまでズームしようと解像度は無限大だ。それが真実というものだから。どんな映像表示デバイスでも、これはおそらくできない。実現しようと思ったら、脳に直接信号ケーブルを接続するしかない。


 現実に、映画やスポーツがDVDで盛んに供給されるているは、単純にコストというか経済的効率性の問題だからだろう。毎回観客の目の前でタイタニックを沈ませて見るわけには行かないだろし、全国民が日韓戦を観戦できるスタジアムも作れない。

 キリスト教では、細部に神は宿るという。

いくら大量の情報量を伝えられるとはいえ、現在の映像技術はまだまだ神の仕業にはほど遠いようだ。

                        





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  1. 2005/10/22(土) 02:27:23|
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1.眼を閉じ、耳を開きなさい  ~AVマニアが語りだす~

まず、題名は本文内容に対してあまり正確ではない。

正確に言うと、AVとはAudio Visualの略であり、秋葉原は萌えの街ではなく電気街だ。

これが、僕が言いたいことのほとんどすべてであり、これだけわかってくれれば十分だ。

でも、もう少し書いてみる。



 我々は、目を閉じることができても、耳を閉じることができない。マブタみたいな開閉装置は耳にはついてないからだ。
  疲れたとき、目を閉じて視覚を遮断するだけでも脳を休める効果があるという。だが、よほど精神が困難に陥らない限り、両手で耳を塞ぎたくなることはないはずだ。寝ているときは目を閉じるが、耳は閉じない。 

 そもそもこれはなぜか、不思議に思う人はいないだろうか。
  
 この疑問をいただきつつ、映像と音の話を書こう。


  
  20年ほど前、SonyとPhilipsがCompact Discを策定して以来、音を記録するのはCDでありつづけた。技術が進歩して、再生する装置がMDになっても、MP3プレイヤーになっても、CDが廃れることはなかった。創作された音楽は今でも、CDが策定された当時のと同じの基準で、同じ音質で記録されつづけている。MDもMP3も、しょせんCDの劣化版に過ぎないのだ。
  我々の耳は、所詮そんな程度の代物であるということだ。つまり、CDの音質で有り余る程のもので、進化は必要とはされない。実際、高音質を謳うDVD-AudioやらSACDといった次世代規格は、市場に受け入れられなかった。DTSとあDolbyとかサラウンド規格が出てきたが、音質が進化したというよりも、多チャンネルになっただけだ。

  
 つまり、音声記録の規格はある時期から停滞しつづけた。

 それに対し、50年にわたり、映像規格は進化しつづけた。
テレビ規格がNTSCに定まり、白黒からカラーになった。それを録画するのがβ、VHSであった。そのうちDVDが出てきて、今、ハイビジョンが出きた。今度はこれを記録するためにHD DVDとBlue-ray Discが当年さながら争いを演じている。伝達ケーブルも最初コンポジット端子(黄色)であったが、S端子になり、コンポーネントとDになった。・・・・・・・・・D端子はD1からD5まであり(よく誤解されるがD端子が伝えるのはアナログ信号で、デジタル信号ではない)、デジタル伝送の方は、HDMI端子がフルハイビジョン(横1920*縦1440ドット)の画像まで対応する。

 パソコンディスプレイも、テレビ画面もどんどん大きくなり、精細になっていく。いつの時代になっても映像機器の進化は疲れることをしらない。なぜだろうか、不思議に思わないか?それとも進化はあたりまえすぎることなのか。
 
 想像してみるがいい。目を閉じ、耳を開いて

ヨーヨー・マーの演奏が聞こえてきた。聴衆のあなたは、これが本当に本人がプレイしているのか、それともCDとデジタルアンプ+高級スピーカーが作りだした音なのか区別することができるのか?

 今度は目を開いてみるがいい。目の前に高価な大型液晶テレビに、ハイビジョン撮影されたヨーヨー・マーの演奏シーンが再生されている。あなたはこれを見て、本物がそこにいると勘違いするのだろうか?

 おそらく、一番目で間違える人はいても、二番目の質問で間違えるひとはほとんどいないだろう。それはディスプレイのフレームがあるからじゃない、フレームを上手く隠しても、近づけば一発で解ってしまうものだ。

 このことからいえるのは、映像機器にはまだまだ進化の余地があるということだ。

 考えてみれば、我々人間にとって、視覚は聴覚よりよほど重要な役割を果たしている。盲人か聾人のどちらかにならなければいけない、と想像してみればいい。
 同時に、目の認識力(解像度と言いかえてもいい)は耳のそれを大きく上回っている。これについては、次の章の情報量で詳しく書く。


 ところで「ヴィジュアル系」ということばがある。僕のある友達が女の子と別れられなかった理由を追憶して、「ヴィジュアルがどストライクだったからな」と話していた。
  時を追うごとに男女問わず見た目がどんどん人々の関心ごとなるのは、テレビが戦後50年を支配してきたからではない。そもそもテレビが支配したという事態自身が、人間という生物の性能からして当然だったのではないか、と思う。

 人間はVisualの生き物だ。

 このことを昔の中国人は 百聞不如一見 と言った。
 
 しょせんひとにとっては、目で見えるものが真実であり、重要である。一方で聴覚なんていう瑣末なものは、遮断する器官をもつまでもない。



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  1. 2005/09/28(水) 23:11:39|
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