超 自 省 録

時事、日中関係、社会問題について。会社員、オタク、二ヶ国語をしゃべるやつが、書きます。

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群から抜きん出るということ

考えてみれば、大数の法則というのは実に恐ろしい。ほとんど起こらないような現象も、無限回近く試行を繰り返せば一定回数起きてしまう。

 卑近な話をしてみると、毎年冬に大雪が降ったり、夏に気温が37度くらいになったりすると、日本全国で死者が数人から数十人出てしまう。これをニュースで見て「おかしいな?そんなことで人間って死ぬもんなの?」と不思議に思う人はいないのだろうか。僕は中学生くらいのときいつも不思議に思っていた。ずっと考えて出した結論が「まあ、一億人もいれば、そんなんことで死ぬやつも出てくるだろうな」というもの。して、先日の飲み会に行く途中でこの話をしていたら、後輩がなかなか面白いなことを言ってくれた。「そりゃそうですよ。三億人もいれば猫を電子レンジに入れてチンする人だって出てきますもん!」と。
 
 なるほど。
 思えば、児童虐待とか、いわゆる迷惑メールもそういうことかもしれない。普通に考えれば、自分の子供を死に追いやることも、「24才OLです体だけの関係持ちませんか費用は私が持ちます」というメールに引っかかることも、本来文字通りありえないはずなのに、実際には発生しているのである。母集団の大きささえ十分にあれば、いかなる不可能な現象も可能になるということだろうか。

 つまるところ、いささか不謹慎な呼び方になるのだが、統計的観点から考えればこうしたとんでもない「はずれ値」のような人は世の中に必ずいる。彼らの偏差値は、いったいいくらなになるのだろうか。偏差値は本来、なにもレベルの高さという意味はなく、平均値からの離れ具合・はずれ具合そのものを示す指標である。だから本来偏差値30も偏差値70も、抜群という意味では同じようなものである。

 本題に戻って、具体的な話を続けよう。日本人一億人のうち、10人が37℃の猛暑で死んだとしたら、彼らの偏差値はいくらなのだろうか。おおよそ一千万分の一なので、正規分布でいうと平均から標準偏差5.2個分はずれたところにいることが、ExcelのNORMINV関数から分かる。ここから偏差値の作り方だが、この5.2に10をかけてさらに50をたすと、102となる。 これが、彼らの偏差値なのだ。また、アメリカ人3億人のなかに猫を電子レンジで乾かした人が1人だけいたとしたら、かの人のは標準偏差5.9個分外れていて、偏差値は同様に計算して109だということになる。意外なことに、両者の偏差値がさほど変わらないのは、正規分布が端っこのほうでものすごい勢いで収束しているからであろう。

ところで、この話をしたのには訳がある。

 僕の周りには、僕自身をはじめ、妙に自負を持っている学生が多い(特に東大の学生)。自負とか自信はいいことで、人間の原動力のもっとも強い形の一つでもあるのだが、時には客観的に自らのポジションを把握することも重要だろう。では客観的に見てみると、多くの東大生の思い上がりの源泉の大部分を構成している、受験でいう偏差値70、80とは、いかほどのものであったのかと。
 下の表を見てみると、偏差値70は100人に1人以上いるし、偏差値80でもたかだか1000人に1人の存在であることがわかる。猛暑で死ぬ1000万人に1人には遠く及ばない。珍しくともなんともないのだ。ほとんどの東大生は、偏差値70前後であったから、高校に2~3人はいたようなやつだということになる。感覚的にも多分これは合ってるはずだ。

sd.png



ちなみ上の表の読み方はこうだ。最初の列の数字はあるものの平均からのはずれ具合を表していて、すぐ左はその感覚的な説明である。

たとえば「0.1」なら10個に1個という意味で、中学のクラスなら3人くらいはいたようなやつ、という意味。「1E-06」なら10の6乗に一個、100万人に一人、鳥取県に1人くらいはいるかな?というくらいの意味である。

表の左から二列目の数字は、そのあるものが標準正規分布に従った場合にとるべき値で、三列目はそのものがとるべき偏差値である。三列目は二列目に10をかけてさらに50を足せば得られる。

「世界に一つだけの花」ならば、偏差値はいくらくらいになるだろうか。正規分布のような山形の分布の場合、一つだけのユニークな存在は、左端か右端のどちらかということになる。すると、世界に一つだけの花はなにかの指標において地球人のなかでもっとも平均値から離れていると人だと解釈できて、おおよそ10億分の1~100億分の1の存在である。すると、三国無双と天下無双の間くらいで、偏差値約110ということになる。

もちろん、軸のきり方によってはユニークな存在になるのは簡単だ。比べる期間や指標の選び方を細工すれば自分を一位にすることはたやすい。たとえば、空を飛べないキャラのなかで一番強いのはセルでも孫悟空でもなく、ヤジロベーだ。そんな限定の仕方が卑怯だというのなら、なんなら指標自体を変えて、足の臭さを比べたっていい。はたまた所有財産をすべて寄付してしまえばその瞬間から貧乏人1位タイになることだってできる。「すべての人は世界に一つだけの花である」というテーゼを、僕はそういう意味だと解釈している。

 だが、指標はなんでもいいわけではない。希少性、等価交換といった制限から・・・悲しいことかな、市場社会の中で真に意味のある指標において、群から抜きん出たたった一つの存在になることがどれほど大変なことか。それはみんなよくお分かりのはずだ。人生の苦闘の多くが、この市場経済における大数の法則との苦闘だといっても過言ではないと思う。いうなれば、人間が多すぎることによる不幸、といえるかもしれない。しかしそれはとりもなおさず、人類繁栄の源でなのだから、どうしようもないことでもある。 かくして、どうしようもなく、我々は大数の中に埋もれるか、抜きん出ようともがきあがくかのどちらかを、選ぶしかなくなったのである。
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  1. 2006/09/30(土) 17:09:07|
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大学四年の夏休みを省みて 二

 前回は脈絡なく書いたが、一言でいうと「ひきこもりは良くない」という意味だ。それが主旨。

 今回も思うままに書く。
 今年の夏休みを楽観的に評価しようとすると、まあネタもないことはない。まず大学の定期試験を上々にこなし、卒業をほぼ確実のものとしたこと。そして自動車の免許を取りにいき、これも獲得することが確定したこと。この二点が、さしずめ今年夏の達成だ。学校の試験だが、今学期は15コマ30単位を履修した。成績の獲得には七月から本当に苦心した。思い出せば7月下旬のゼミ合宿のとき夜中寝ずにレポートを書き続け、帰路などは中央道を走る高速バスのなかで揺れと戦いながらレポートを書いていた。酔いで相当気持ちが悪かったが、家に帰っても書き続け、その日の夜11時59分に送信ボタンを押したときは感慨ひとしおであった。9月1日から始まり11日まで断続的に続いた期末試験も、当初脳内で自らに向かい豪語していたほど準備はできなかったが、根幹部分を一通り復習し、始めて徒手空拳ではない状態で戦場に立つことができた。結果はこうだ。観光論という科目を放棄し、他の14科目28単位を受けて、すべて優の可能性が残された状態(というか俺は全部優とったつもりだ!)で9月を折り返すことができた。大学入学以来7度目の定期試験にして、初の快挙である。
 してみれば、免許合宿に2週間、試験とその準備に三週間かかっていたことになる。夏休みに入った7月21から今日まで計9週間あったが、実質的な可処分時間は4週間、試験の前後にそれぞれ連続して二週間あったことになる。・・・・・・・・やっぱどっかにいくか、なにかすりゃよかったー。ちきしょうー、自分のバカヤロー
 この夏が楽しかったかというと、まったく楽しくなかった。ヨチが企画していたオーストラリア旅行が企画倒れになり、どこにも行けなかった。じゃあ、と思ってパソコン環境の整備に手をつけたら、パソコン地獄にはまった。秋葉で1万円で中古のIBM Net Vistaをファイルサーバーとして購入したが、HDDの配置換え、OSの導入からネットワークの設定までトラブルが多発し、今一度手間取った。そして信じられないことだが、うちの環境はいまだネットワークに未解決の問題を一つ残している。もうあきらめた。久しぶりに帰った実家のパソコン環境の再整備も含め数十時間もかかってしまった。パソコンは本当にひどい。もっと使いやすくなるべきだと実感した。
パソコンを片付けると今度は映画アニメドラマ鑑賞のるつぼにはまった。これは前述したとおりのありさまだ。ゲームも三国無双をやりつくして、ゲームボーイのマジコンを取り出して再びやってみたりた。FFタクティクスは面白いが、途中でセーブデータが消えたときはむしろホッとした。そういえばいま、NDSL用にSuper Card SDなるものが台湾だか中国のメーカーから売られているようだ。なんでもSDメモリーカードにゲームを何本も詰めて、Nitendo DSでプレイできるらしい。SDカードに入れ動画ファイルもDSで見れるという。この手のグッズは本当に興味を惹かれるが、買うのは止そう。二年生の冬に講堂でGBA遊んでいたあのときの人生のスランプ(というかスリップ)には戻りたくないので、さすがに購入は止そう。11月のPS3も、購入しないことを決めておこう。

いま一番怖いのが卒論だ。これまでの経験から、この種の締め切りはあるがゴールはない作業で地獄を見るのは間違いない。なのに、今から準備し始めることができない自分がいるのは、今から戦の準備を始めてもこの戦に勝つことはできないとうすうす知っているからなのか。試験直前のあのなにも勉強できず、かといって楽しめず、いたずらに時間だけが過ぎていく気持ち悪い時代がすでに始まっているというのか。時々やるべきことをいっぺんにたくさん思い出して、恐ろしくなって冷や汗をかくことがある。大体出かける直前やシャワーを浴びた後頭が冴えたときだ。なんなのだろう、あの「しまったー」感は。まるで大事な約束をすっぽかしてしまったことに気づいた瞬間みたいだ。いや考えてみれば、「やらなきゃいけないこと」というのはそもそも過去の自分が未来の自分ととりかわした約束みたいなもので、それをすっぽかしてしまえば恐ろしくもなるだろう。正直、ゼミが始まるのが恐ろしい。新井ゼミも小林ゼミも。
  1. 2006/09/29(金) 02:13:06|
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大学四年の夏休みを省みて 一

 早いもので、もう9月が残り2日になり、夏休みが終わる。
 何日も前にスパゲッティを茹でて、そのままにして忘れていたらしい。今日鍋を使おうと蓋を開けて見たら、真っ黒のヘドロにところどころ白のまだら模様、そんな風にカビが生えていた。急いでトイレにもって行き流すと、今度は予想外の出来事が起きた。便器から黒い霧、とでも言おうか。非常に細かいカビの粒子だと思われるものが、キノコ雲状に立ち上ったのだ。驚いた拍子に一歩ステップバックし、こんどは冷静になって息を止め、シャワーヘッドをつかみ、急いで水をかけて消火する始末だ。1人暮らしをはじめてまもなく3年目なるが、自分史上前代未聞である。
  思えば、鍋の底のカビは案外おれ自身の象徴で、夏休み全体のシンボルかもしれない。結局この夏おれはなにもしなかった。どこにも行かなかった。部屋で停滞し腐っていた。かねてから自分が理想とする男性像の一つに、風の谷のナウシカのユパがある。ユパのような見聞と見識を蓄えた旅人が理想だ。なのに、この夏にしたことを一言でいえば、「引きこもりを極めた」ってところか。いまは何を隠そう、毎日11時に就寝して19時に起きている。またゲームと海外ドラマをしこたまやってしまった。ジョギングと買い物で時々外に出ていなかったら、ほぼ部屋の中でヘドロと化していたことだろう。この生活にも唯一利点があって、それはお金がかからないことである。涼しかったのでエアコンもつけず。おそらくエンゲル係数95%くらいの生活をしていたと思う。悪い点はそのうちなにをやっても面白くなくなるということである。見てる作品が悪いからなのか、それとも感覚が麻痺したからなのか。それでも、毎日大体、次の一話を見ることと画面を消して寝ることが無差別になるところまで見て、寝る。
 欝がどういう気分か知らないが、こういう体が動かず人にも接しない生活をしているとおのずと気分も冴えない。それで有り余る可処分時間があったにもかかわらずこのブログは書かなかった。久しぶりに再開したのは、すこし自分にムチを打つというか、見て消費してばっかでなく、なにかを作ることでリハビリしたかったからなのだ。できあがったものがすこしの達成感を与えてくれて、それが前向きに生きるための糧となる。本当なら伐採のバイトか大工仕事でもしたいところだったが豊島区近辺じゃひとまず不可能だろう。ともあれ労働の喜びを通じてヘドロから真人間に戻りたい気分だよ。
 あと正直に白状すれば、文章を公開することですこし自己顕示したかった。この文明の中心の片隅で、消え入りそうなほど希薄になった自分の存在感を再び示さん!、といったところか。笑
 ところで、生の体験である旅・人生には及ばないが、映像作品というのは疑似体験・追体験の手段としてはいいもので、手軽で便利だ。どこぞのネチズンの御仁が、「人生に必要なものはすべてを映画とマンガから学んだ」とまで言っている。(お前両親はいなかったのかとすぐ突っ込みたかったが)。とはいえ、実際に体験するのと比べてこの種の擬似体験は二つの欠点があると思う。第一に、画質音質が足りず、触角臭覚味覚に至っては全く提供しないことから、リアリティが劣るということである。第二に、(これは第一の欠点から生ずるものでもあるのだが)スクリーンの中のできごとを傍から漫然とみても、当事者意識が生まれにくいということである。どっちかというと、第二の欠点の方がより致命的で、当事者意識が希薄だと、生の体験ほど多くの経験値・成長も得られないのだと思う。こういう点、まだ小説などの方が没頭しやすく、作中人物の視点で思索にふけやすい。これは映像作品が文学に負けている点の一つとも言える、と思う。
 注意したいのは、ここで言ってる経験値とは、技能とか技巧とかの話ではない。技能とか技巧は当然、自分の手を使って実際にやってみなければ身につかないが、それ以外の「人生における判断力」みないなものも、実は見聞きするだけじゃ足りず、自分で場数を踏んではじめて身につくのだ、という話である。

 これを「現代の帝王学」の著者 伊藤 肇 風に言えば、知識、見識、胆識ということになるが、そんなの引き合いに出さなくても、あたりまえのことなのか、しらん。ちなみに胆識というのは安岡 正篤の造語で、見識+実行力というくらいの意味だという。

  なんだか書いてて後半にすごく話が跳んでしまった気がするが、果たして俺ではない他人が読んで理解できるのだろうか。 ち、続けよう。
  1. 2006/09/28(木) 09:46:36|
  2. 生活記録
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新世紀エヴァンゲリオン感

読者の皆さんこんばんは、本ブログ作者です。

最近縁があってといいますか、アニメおたくの友人がいて、「新世紀エヴァンゲリオン」を全話見ることになりました。友人の彼がほとんど押しかけ女房のようにDVDをうちに持ち込んでくれたため、前から見てみたいと思っていただけに、助かったといえるかもしれません。ちなみに、このブログの校正とフィードバックをやってくれているのもその彼です。




公式ページへのリンク


 

さて感想ですが、この作品に対する僕の評価ははっきり言って低い。疑問だらけがのこり、そのストレスが鑑賞のエンジョイメントをすこし上回るという不愉快な結果になった。本来ならここに、疑問点をすべて書き出したいが、ネット検索してみるとすでにいろんな人がいろんな疑問点について議論していて、テクスト分析も盛んに行われているようだから、あえて今からあれこれ具体的にあげつらう必要もないだろう。作品内容の描写も省きたい。みたい人はレンタルかYahoo動画が手近かと思う。一話160円くらい

 ところでネット上のエヴァに関する議論は、作中のさまざまな疑問点に一応答えみたいなものを提示したようで、実は厳密とも体系的ともいいがたい。考えればそれは致し方のないことで、なぜかというと、もともと不完全な作品だからである。アニメエヴァンゲリオンというのは実に無責任な作品である。辛口に言えば、大風呂敷をひろげておいて、結局なにもやらない詐欺師と同じようなものだ。あるいは例えて言うと、ステージに上がったパフォーマーが観客に向かって「あなたたちにこれがわかりますか?」と挑発しといて観客が分からず、「では答えをお教えしましょう」と言ったのはいいが結局自分も分からなかった、というような有様だ
 第21話「ネルフ誕生」では、それまでビルドアップしたすべてに一応の説明を果たすことになっていたようだが、その試みは見事に失敗し、それをみた僕は内心で Bullshit!と何度も叫ぶ。まだ曖昧にしていた方がましだったと思う。劇場版の第25話、第26話といえど、一応の答えを与えるというよりかは、ますますなぞを深めるばかりだ。
 ネット上で見つけた評論で僕が共感したものをを引用すれば、こういうことになる

なぜこれほど多様な解釈と反響が生み出されたのか。

 ひとつには、この作品が、まれにみるほど多くの情報を取り込みつつも、ストーリーの肝心な部分は明確にしないため、多様な解釈を許す作品になったという面がある。
 もちろん、これは、作品自体が狙った戦略でもあった。 
エヴァブームの頃、様々な雑誌で、エヴァのあのシーンはあそこから来ている、あの作品の影響を受けている、という指摘合戦が続いた。
 製作者が明確に狙っていると思われるものから、こじつけに近いものまで、膨大な指摘があったと思う。小説や漫画や軍艦からとられた、登場人物の名前や各回の題名、ちりばめられた精神分析や遺伝子関連の用語、70年代の特撮やかつての名作アニメ、SF等を思い起こさせる演出などなど。
 それぞれの引用は、それぞれの元ネタに親しみのあるファン達から歓迎され、それぞれの論点からの解釈を生み出すのに成功した。
 いくつかの分野に関しては、専門の学者達までコメントを与えていた。 
 「ありとあらゆる人が見た時に、自分の鏡となって返ってくるような作りになっている。情報量がやたらと多いし、見た人の投射がそのまま返るようになってますからね。各個人によって感じる面白さも違う」(庵野監督「スキゾ・エヴァンゲリオン」) 
 作品自体が、多様な関心をひくことで話題を広げることを狙うという戦略は、間違いなく成功したといえるだろう。 
 一方、膨大な解釈が生み出されたにも関わらず、作品の、いわゆる「謎」とされる部分の解明や、物語の統一的な把握の試みは、ほとんど成功しなかった。
 少なくとも、万人が認める基本的解釈といったものさえ、まとまらなかったし、細かく分析すればするほど、矛盾が生じてくる面もあった。
 また、製作者自身、最初からきっちりと作品世界を考えた上で製作したわけではないことを明言していた。

以上 http://homepage3.nifty.com/mana/original.htmより引用。なかなか良い論を展開しているサイトだ。
 

 僕の意見を述べれば、こうだ。エヴァンゲリオンという「仕掛品」に価値があるのだとすれば、それは見た人間が自分で考えることによって何かを得る、ということだろう。しかし自分で考えてはじめて価値があるでは、作品ではなくただの問題提起である。問題提起ならクリエイターでなくだって、3歳児だってできる。最近電車の吊り革広告で見かけた「ねえお父さん、どうして子供はセックスしちゃいけないの?」という問いは世の中の99パーセントのお父さんを驚嘆させ絶句させ考えさせ成長させることはできるだろう。たやすいことだ。
 もしエヴァンゲリオンという作品の主旨が問題提起だったとしても、それにしても、製作者は一応の答えを提示しなければ無責任であり、非生産的である。答えを提示しないことは、可能性だけ言及して具体策を提示しないのと同じことだ。宿題を出すだけ出して採点をしないのと同じことだ。模試を受けさせて成績を返さないのと同じことだ。批判だけして代替案を提示しないのと同じことだ。それは簡単だが、無責任だ。そんな無責任なことをしていいのは、観衆であり、消費者であり、選挙民である。当然ながら、契約の相手方にいる製作者、生産者、政治家にそんな無責任なことをする権利はない。にもかかわらず、95年当時、この作品の公開は公共の電波を借りて、衆人の関心をあつめて、公然と行われていた。由々しき事態だ!
 エヴァンゲリオンは教育番組だ!公共の電波をジャックしての宿題の配布だ!センシュアリズムを餌にした挑戦状だ!そうだとしか思えない。そこにしかこの作品の意義がない。そう考えると、この宿題に食らいついた人間どもには、希望があるといえよう(あいまいな表現だが、ほかに良い言葉が思いつかない)

 ところで一歩引いてみれば、むきにならずに、普通にこの作品を楽しんでいた人もたくさんいるだろう。笑

いやむしろそれがほとんどかもしれない。そしてエヴァ現象の経済効果もあっただろうし、アニメーションの構図や情報過多という手法は「攻殻機動隊」にも受け継がれているように、後のアニメーション作品に影響も与えたのだろう。僕個人はこれをきっかけに聖書への関心がさらに高まった。

 また、この作品が一貫して美しく、インパクトがあり、キャラクターのデザインも秀逸であることを言うことを忘れてしまったが、最後にここで言っておこう。そして僕の一番好きなキャラがトウジで、嫌いなのがゲンドウで、萌えたのがレイであることも最後に言っておこう。さらに、主な登場人物三人 碇ゲンドウ、碇シンジ、綾波レイ  の名前が、キリスト教の三位一体説に絡んでいるというトリビアも最後に書いておこう。どういうことかって? はじめに言葉ありき。ゲンドウ(言動)はすなわち神。シンジ(神児)はその子で、レイ(聖霊)は神と子を媒介するものだからさ。なかなかおもしろい設定だろ。
  1. 2006/09/27(水) 06:42:33|
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警察恐怖症

昨日夢を見ました。僕が二人乗りの原付の運転をしていて、走り出したとたん警官と出くわした夢です。その場で逮捕された僕はひたすら懇願しました。涙を流しながら自分が犯した交通違反の害のなさというか、無邪気さを訴えていました。そしてなぜなのか、それまでに犯した違反の計7点分についても網羅的に弁明し、自分のような原付ライダーの交通弱者ではなく、スレスレの追越しをするタクシーや縫い目走法をするバイク便を取り締まるべきだと力説していました。このあたり、本心がすごく夢ににじみでていて、起きたあとに苦笑いします。

 どうも、最近ブログも実生活も全くさえない僕です。

 近頃原付バイクに乗っていて、警官を見かけると怖いです。ドキドキではなく恐怖感を覚えます。警官のみならず、警察っぽい制服そのものにびびるようになりました。例えば警備会社のおじさんや、工事現場で交通整理をするおじさんを遠くから見かけただけで、戦慄です。人だけじゃなく、車にしても同じ。白いの大型バイクや、塗装が黒と白の自動車を見るとすかさず、ぼくはブレーキをかけて減速します。もはやトラウマですね。

 これが、違反4回、累積減点7点、罰金2万3千円でついに免許停止をくらった小心男の成れの果てでしょうか。悲しいかな、情けないかな。
 判断力と技能が不足だったからだといわれれば、そうかもしれないません。しかし自分としては、運転に対して慢心だったことも、公の安全や自分自身の命をを軽視したこともありません。人道を一度も踏みはずさずにして、犯罪者にでもなったかのごとく警察を恐れるようになったは、ひとえに道路交通法の妙味のおかげだと言うことができると思います。すべての人が犯罪者というか加害者になれる、それが道路交通法のすばらしさだと思います。


ちなみに僕の違反の内容はこんな感じです。
・一回目 ヘルメット不着用 1点 罰金なし
・二回目 駐車違反     2点 罰金八千円
 この時点で、「初心者講習」というのをうければ点数を帳消しにしてやるよというオファーがハガキで送られてきましたが、一日の時間も1万円の講習費も出したくなかったので、当然出席せず。どうせもう違反はしないし、しばらくすれば点数も消えると思っていました。

 そしてとうとう
・三回目 速度違反(58km/時) 3点 罰金一万二千円
 夜10時。下り坂のすぐあとの登り坂の道路の引っ込んだところに陣を張って待ち構えられていました。ここで計6点になり、30日の免許停止の行政処分が決定しました。このときもやはり、1万2千円くらい払って講習に出れば停止期間が一週間以下に短縮される、というオファーが提示されましたが、指定日にいけなかったので、パスしました。

・四回目 右折違反 一点 3千円
 秋葉原に買い物に行った帰り、後楽園下の三車線道路で二段階右折ではなく普通の右折をしたところ、警棒を振りながらお辞儀しながらとめられ、免許証出せ。このとき二段階右折の標識はなく、まだ道路は交差点直前まで二車線だったが、弁明の余地はなかった。


すこしというか、すごく話題が飛びますが、12chのカンブリア宮殿というテレビ番組の録画で、村上龍が東京地検特捜部長にインタビューする場面を見ていたときのことです。サンクチュアリーという漫画やら、金丸信やらいろんなことが思い出され、ひとつ思いついたことが

 車が人を犯罪者にするのと同じ原理で、権力は人を犯罪者にするのじゃないかな、ということです。
 どういうことかというと、身体能力の増幅のおかげで、小さな間違いが大きな効果を生み、他人を傷つけてしまうということです。平たくいえば、車を運転すると、普通の歩行よりはるかに高い質量、速度で走ることになり、それが人を傷つける。権力者も然り。身体能力の拡張という意味では武器や機械一般なんかもそうですね。危ないといわれるゆえんだ。
 そう考えると、医師の手の動きを10分の1にする医療用ロボットアームというのはちょうど逆の発想で、身体能力を縮小することで安全を図っている。動きが10分の一になれば、手元の狂いがあったとしても小さなダメージか、あるいは閾値以下に収まったなら全くゼロのダメージしか発生しない、ということになるのかもしれません。

 このアナロジーは普遍的で、なかなか妙かなと思います。

  1. 2006/09/26(火) 07:04:50|
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テクニカルノート:Windows XPと互換のパーティッションがありません。

本記事は、パソコンのHDD(ハードディスクドライブ)を交換したり、新しく購入したりしたときに、WINDOWSの再インストールができない特定の現象への対処法を記したテクニカルノートである。


そういえばこんなマニアックな記事このブログで書くのはじめてだなー。まあ、3時間も格闘した末やっと解決したのだから、同じ問題で困ってる人のためにノート残しておこう。


きっかけは今日秋葉でSeagateの320GのHDDを購入したことある。これはすばらしい製品だ。Barracutaシリーズもついに10になり、2プラッタ構成と16MBのキャッシュ・・・・発熱も小さく音も静かだというじゃないか・・・・・これで10880円とはすばらしい。

しかしWindowsXPをインストールしようとすると、以下のエラーメッセージが出た。ネットで検索してみると困っている人が多数いた。






ところが!WINDOWS XPのインストールができない!
というかそもそもフォーマットができない!


Partition created by windows windows xp not recognized by itself


・・・・書くのが面倒くさくなった。

結論を言うと、serial ATA とparallel ATAの併存が問題だったようだ。インストール時だけパラレルケーブルを抜くと解決する。
  1. 2006/09/14(木) 21:35:16|
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