超 自 省 録

時事、日中関係、社会問題について。会社員、オタク、二ヶ国語をしゃべるやつが、書きます。

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外野にいるすべて批評家、それが人間ではないか

「評論家は必要ない。本当に仕事ができる人間がほしい」

「外野から批判してないで、自分でやってみろ」

就活前線でよく耳にしたこれらの言葉が、本当に意味しているのはどういうことだろうか。


私は、「あらゆる人間は生まれもって優れた評論家である」ということを意味しているのだと思う。言い換えれば、我々人間は何事かに関して、それをなす能力がなくても、認識し優劣順序をつける能力を持っているということである。具体的に言えば、こういう例だ。

・どんなにつまらない人間でも、テレビに出ているお笑い芸人を見て「あいつはおもしろい、あいつはおもしろくない」と判断することができる。

・どんなに体が貧弱な人間でも、オリンピック競技を見て、どの選手がいちばん速くて、どの選手がもっとも力強いか判断することができる。

・どんな人間でも、他の人間を見て一瞬のうちに美醜を判断することができる。


 すこし話がずれるが、美醜を一瞬のうちに判断する能力は本当にすごい。今のところ、これはコンピューターに画像処理させてもできない。おそらくコンピューターは価値観を持たないからだというのはあるが、それを抜きにしても、顔のイメージは情報量が多すぎて一瞬のうち処理は難しいということはあるだろう。また、大方の人間で美醜の判断が一致するということはさらにに驚くに値することだ。以前友人と夜通しで、これがなぜなのかについて議論したことがあるが、ナイーブな結論しか出なかった。

 本題に戻る。人間は本質的に優れた評論家である。このことは、人間の認識・想像力が行動能力よりはるかに優れていることに起源する。たとえば完全なる暗闇の中では、人間は40km先のろうそくの光を認識することができるが、40km先のろうそくを点すことができる人はいない。荒唐無稽というのならこの例はどうだろう。人は正確な円を頭の中で想像することができるが、ほとんどの場合それを描くことはできない。実際にイデア(理想)を体現できるのはほんの一握りの人間である一方、あらゆる人は頭の中にイデアを構築できるのだ。つまるところ、われわれ人間は実に、認識においては高性能、そして想像においてはインテリジェントな動物である一方、実際の実現能力はほとんどの場合低い。

 このことによってどういう現象が生じるのだろうか。

 それが批評・評論である。

 人は、たとえ数学教諭じゃなくても円を頭の中で描いて、それと実際に数学教諭が描いた円とを比べてケチをつけることができる。人は、スーパーモデルでなくても、スーパーモデルを見て甲乙をつけてあれやこれやと言うことができる。我々が「今日の島田しんすけや明石家さんまはトークの調子が悪いな」と思うことがあったとして、これは、我々が彼らのように一級のトークができることをすこしも意味しないが、一方でだからとて、我々の認識・判断が間違っているということもめったにないのだ。白痴を除けば、すべての人間は優れた評論家といえるのだ。

逆に、もしすべての人間が自分の実現能力の限界までしか認識できないとしたらどうだろうか? 自分より速くいものが見えない、美しいものが認識できない、自分が書くのより上手い絵を鑑賞することができない。

人は理想の中の自分にはなかなかなれない。「よし、OOOしよう」「XXXになろう」と立てた目標がよく頓挫するのも、この実行能力と認識・想像力の差から生まれる現象である。


ところで、評論・評価においてもっともおもしろいことは、Aさんという人が下した評価とBさんという人が下した評価が、お互いに違っていることはあまりないということだ。おもしろい・おもしろくない、美しい・醜いは、個人によって判断が微小にずれることがあって、大方のレベルでは一致する。そうだからこそお笑い芸人や、グラビアアイドルというような職業が成り立つのだろう。

 このことはさらに大衆による多数決の正しさへとつながる。
 
 衆愚ということばあるが、これは実にアホなことばだ。大多数の人間は(他の意思決定主体より)正しいからこそ今現に民主主義世界は繁栄しているのではないか。マスコミ、識者どもが心配しているのとは裏腹に、大多数の人間が愚かだったり、愚かにされたりするというような事態は、歴史のなかでめったにしかなかったのではないか。独裁者が出現した時代でさえ、全世界をみれば人間は正しかった。
 それに他の観点から大衆の正しかをこのように理論付けることもできる。すなわち、(以前の記事でも書いたが、)真(善、美)とは所詮、大多数の人間の共通主観である。もしそれ以外のなにかであったとしても人間にとって意味はないのだ。愚直な例をあげれば、「本当は株式相場が下がるのに、すべての人が上がると認識している」のならば、本当に下がるという真実は存在しなくなるのだ。すべての人にとって永遠に存在しない真実は、しょせん存在しないのと等しいということである。
  このことと、人間の認識・想像力の高さ、さらに人間の価値観の一致(AさんとBさんの認識はほとんどの場合一致すること)の三点が、大衆による多数決の正しさを支えている。


 このタイミングでここまで露骨に書けば、気づいた人もいるだろうから、あえてはっきり言おう。この議論の亀田こうき事件への適応である。

 亀田選手は実に傑出した人間だと思う。彼が、身体能力において、またその話しぶりを聞けば知性・誠実さにおいて、さらに推測するに自律・精神力において、平均的な19歳あるいはさらに何年か多く生きた青年と比べて並外れて優れているということは間違いないだろう。そして記憶が正しければ、私は記事の中で彼を批判したことは一度もない。

 これらの事実とは別に(多くの日本人はこれが別だということに気がついていないのだが)、亀田選手がチャンピオンベルトをとったあの試合で、彼が勝っていた、言い換えると世の中の大多数の人間の判断が間違っていたということはありえない。もし、普段優れた評論家であるはずの大多数の人間があの試合に関して間違っているというのなら、換言すれば、(あの試合に限って?)ボクシングは素人には理解できないというのなら、ボクシングというスポーツ自体が責任を取るべきだと思う。衰退という形で。

 以上が私の考えだ。
  1. 2006/08/05(土) 14:35:23|
  2. 雑感、随筆
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<おなかを掻くと、なぜ背中がかゆいのか | ホーム | 亀田こうき選手が負けるよりも可哀相な目に遭っている件について>>

コメント

ここでいってること仕事始めたら日々実感してます。
誰かが枠を作ってくれたものにあ~じゃないこ~じゃないってケチつけて改善していく事はわりとたやすいけれど、最初に自分でコンセプト打ち出して叩き台をつくる事のいかに難しいか。

ちょー君はやっぱり読み応えのある文書くね~

エライ人になったら執筆よろしくね(笑)

  1. 2006/08/14(月) 09:51:52 |
  2. URL |
  3. まる #-
  4. [ 編集 ]

うれしいことをいってくれるじゃねぃか。笑

本当に賢い人とは、実践する前に真理法則を見抜く人のことだといいます。経験から帰納する必要がなく、見抜いた法則を演繹的に適応できる人です。
僕もそうなりたいですねー。

エライ人になったら、仕事をとらせてあげましょう。笑
  1. 2006/08/14(月) 17:40:19 |
  2. URL |
  3. 超旅行人 #mQop/nM.
  4. [ 編集 ]

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