超 自 省 録

時事、日中関係、社会問題について。会社員、オタク、二ヶ国語をしゃべるやつが、書きます。

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文章を書くことの重大さ

 最近書いた記事の中で、僕は二つの間違いを犯した。

 まず一つ目は、「神と子と聖霊」を「神と子と精霊」と書いてしまったこと。     新世紀エヴァンゲリオン感の文中で
 二つ目は、ドラゴンボールの登場キャラ「ヤジロベー」を、「やじろうべ」と誤記してしまったこと。 群から抜きん出るということの文中で

 一つ目の間違いはWikiを読んでいるうちに自分で気がつき、二つ目は指摘されて気がついた。どちらに関しても、気づいたとき非常にはずかしくなり、赤面汗顔するほどであった。あまり多くの人が見ていなかったことをただ祈るばかりである。
 
 そんな小さなことで、と思われるかも知れないが、書くことにおける錯誤というのは、実にはずかしいことだと思う。そして許されることではないと思う。
 文章を書き間違えるとはずかしいぞ、というのが本章の主旨である。しかし本論に入る前に、やや長ったらしくなってしまうのだが、もう二つだけ例を挙げよう。


例、一つ目
 すこし前に、O.J.Simpsons事件(アメリカを震撼させた殺人事件)を検索して、たまたま法医学とか解剖に関する日本語のウェブサイトに行き着いたことがある。そのサイトをしばらく読んで、なかなか分かりやすく、興味深いなあと感じていた矢先のことである。文章の中から

Martial Arts(格闘技の一種)

という文字列が目に飛び込んできた。
僕は驚き、目を丸くした。ぼくの記憶が正しければ、Martial Artsは武術一般を指す英語である。それを格闘技の一種と勘違いするのは、・・・・・、間抜けにもほどがある。

まてよ、自分が間違っているかもしれない、と思ってWikipediaを調べてみたが、やはり自分は間違っていない。この瞬間、自分がそのサイトに対する信用は一気に失われた。もはやいくら専門的なことを書いていても、分かりやすく面白く書いていても、信用する気にはなれない。

 おそらく僕がこの種の間違いに対して過敏だということはあるかもしれない。しかし、僕だけではないようだ。



例、二つ目
  これは大学のある先生がした話である。
「・・・この方面の専門書というのは、なかなか日本語でイイのがなくてねー。全部英語の本になっちゃうわけ。そんであるとき、フッと本屋でみたら、OOXX先生が書いた訳書があるわけ。手にとって見るとなかなか良くできていて、オレも教材に使おうかなと思ったけど、よく読んでみるとZZZYYYの日本語の訳語が間違っていたわけ!もうおれはその瞬間に、幻滅してしまって、もぉーーーーーこりゃいかんと、がは、ガハハハ 笑」

 この話を聞いたとき、なにを隠そう内心すこしうれしかった。どうやら文書における錯誤に非寛容なのは僕だけではないと分かったからだ。


 僕は、漢字の国で生まれ育った人間なので、実は昔からよく誤字に気づく。一日中テレビを見ている日などは、必ず一回以上は誤字に気づいたんじゃないかな。もっとも最近のものは、9月に放送された「行列のできる法律相談所」の、島田紳助の発言のテロップ「おれ全国に輩下がおるからな」、である。普通に変換すれば配下としか出てこないはずなのに、不思議に思ったものである。
 新聞は比較的に間違いが少ないが、月刊誌などはひどいものである。特に高校生のとき読んでいた音楽とパソコン関係の雑誌は、漢字の間違いが本当にひどかったことをいまだに覚えている。指摘の手紙を書いたとしても、直るような量ではなかった。
 
 こういう経緯で自分は、てにをはの抜けとか、入力変換ミスのような軽度な間違いの類には大分寛容になったと思う。それでも「主席」と「首席」の間違いなどは、油断ならず、「ひょっとしてこいつバカ?」と作者のことを半分疑いながら読み進めずにはいられない。
 ことの極めつけは、文頭に挙げたMartial Artsと聖霊のような例である。この種の間違いはあきらかな誤認識に基づいている。読んでいると、もはや軽蔑とは違った、どちらかというと「問題外」に近い感情になる。


 なるほど文章を書くことは大事である。しかしなぜ文章を書くにあたって間違いを犯してはいけないのだろうか。考えてみると、理由はいくつかあると思う。

 第一に、文書を書き間違えることによって、間違った世界認識があらわになってしまうことである。
 ことばは、我々人間が世界を切り分け、認識し、操作する道具である。人間とは所詮ことばをインプットしたりアウトプットしたりするブラックボックスである。つまり、われわれが「人格」とか「知性」とかと呼ぶものはことばであり、さらに極端にいえばわれわれが「山田さん」と呼ぶものは、山田さんのことばである。
 して、ことばは人間そのものであるということができ、ことばの間違いはその人間の間違い、欠陥であると、すこし言えるのではないか。 (弱気御免) 
 

 第二に、(これは厳格に第一の理由から異なるものではないが)間違った世界認識が引き起こす、信頼の損失である。
 我々人間がこの世界における営みのほとんどは、認識作業であり、認識後の操作作業である。ただでさえ複雑にして多層的な因果を認識すること、そして時にその因果をも超える不確実性を操作することは難しいのに、なんの助けにもならない間違った世界認識などにかまけている暇はないのである。 つまるところ、あれやこれやと苦闘しているときに、ことばを間違える人間に付き合う暇はないということである。


 第三の理由は、文書という特殊な形態にある。
 同じことばであっても、文書は音声と違って、即興的に生まれる必要はなく、また即座に消えたりはしない。言い換えれば、文書が出来上がるまでに要する時間は任意であるし、出来上がった後にはほぼ永久に残る。これにおいて間違いをきたすことは、平たく言えば、「自分のペースで、永遠に残る作品を作ってみたが間違えてた」ということである。これは生き恥をさらすことそのものである。

 以上より、文書を書くということは極めて重大であり、間違いは極力避けるべきであるといえる。
 
 
 ところで余談になるが、ことばづかい一つで人に敬意を抱くようになることもある。それは多くは会話の場合に起こるが、文章の場合も少なくない。最近の体験を挙げれば、雑誌ゲーテ11月号のなかで村上龍が書いていた「伝説」ということばに対する定義がそうであるし(秀逸すぎて不正確な記憶をたよりに再現することは恐れ多く憚られる)、同誌同号のなかで石原慎太郎が書いた手記におけることば遣い、「なぜなのか」がそうであった。後者は、僕なら間違いなく「なぜか」と書いたところを石原氏は「なぜなのか」と書いた。些細すぎる瞬間だが、不倶戴天の敵をすこしばかり尊敬した瞬間でもあった。

 このように、文書の内容の専門性あるいは啓蒙性によってではなく、文書自体によって作者を尊敬するに至る経験も、まれに存在するだろう。そして思うにその多くは、文章の読み手が以前より「なんとなく認識してはいたが、うまくことばで表せなかった世界のあり方」を文章の書き手がズバリとことばで表してくれた場合か、あるいは読み手がかねてより「なかなか上手いフレーズなり。本質を突いているなあ」と思っている表現と一致するような表現を書き手が使った場合かのいずれかである。この二つの場合に読み手は書き手に対して好感を抱く。
 他の場合はないかって?いやー、あまりないと思う。なぜなら人間というのは、前準備なしに、自分にとって目新しい理屈(世界認識)を即座にappreciateすることはなかなかできない。それは自分を超えたものを瞬時に理解し、評価する行為であり、なかなかできたことではないと思う。だから、これを応用して、就職の面接の場では(ほかの場面でもそうだが)面接官の世界認識をズバリ射抜くようなことば・フレーズを話すことは、さしあたり良い評価を得るのに効果的な手段だろう。共感はすなわち評価につながるのである。


 最後に、(もう十分書いたかもしれないが)僕が文章を書くことに対する姿勢に関してひとことを言うと、僕は臆病である。より深く突っ込めば、必要以上に自尊心が高いということになるかもしれない。ともかく、このブログで間違いを書いてしまうことをなによりも恐れ、そのためには自分で見直すことはもちろん、常識人の友人にチェックを依頼している。そして、このブログに限らず公開文書を書くときには、常に用心して書いている。
 だから、もしあなたがこのブログを読んで、「けっこう手が込んでるなあ」とか、「作者、なかなか賢いやつだな」と思ったとしたら、それは僕が用心した結果を読んでいるからであり、本物の作者はもうすこししょぼい。
 もしこのブログをよんで、「くだらない」とか、「作者アホだな」と思ったとしたら、本物の作者はより一層アホである。
  1. 2006/10/10(火) 20:21:01|
  2. 雑感、随筆
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:7
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コメント

ぼくは

ちょーさんの文章、すごいと思いますよ。

僕にはかけないです…(゜Д゜)
  1. 2006/10/10(火) 21:31:32 |
  2. URL |
  3. ちんりー #-
  4. [ 編集 ]

「精霊」と変換ミスをしただけで赤面汗顔する必要はないと思うよ。そもそも三位一体の内容を知っている非キリスト教徒はそれほど多くないと思う。「精霊」と「聖霊」の差を知っている人の数はもっと少ないはずだ。だから、せめて自分には寛容…

精密さより自由自在さの方が、文章の王道だと思う、個人的に。
  1. 2006/10/10(火) 23:28:55 |
  2. URL |
  3. bridgestar #-
  4. [ 編集 ]

すごいと褒めてくれてありがとう。

あるとき、ヨチさんとブログあてクイズをしたことがある。普段読んでいる知り合いのブログを読み聞かせ、誰のブログかをあてるのだが、固有名詞をなど抜いて読んでも、これが良く当たるんだな。人の書く文章というのは実にそれぞれ個性が際立っていて、他人のまねはできないし、自分の個性もなかなか変わらない。


聖霊と精霊は、変換ミスというよりは、単純に知りませんでした。このくらいは知っていてもいいと思います。しかし、よく考えれば、赤面汗顔というのは言い過ぎで、「しまったー」と思ったのが実のところです。レトリックが過ぎましたね。笑
 僕も大家が書くようなエッセイにはあこがれますよ。
 コメントどうもありがとうございます。面識のない方からコメントがいただけると格別にうれしいです。
  1. 2006/10/11(水) 00:28:48 |
  2. URL |
  3. 超旅行人 #mQop/nM.
  4. [ 編集 ]

いよいよ明日成績を発表する。
いい成績をとるように!

----LaoXiang from Xi'an
  1. 2006/10/11(水) 20:51:31 |
  2. URL |
  3. ナナシ #-
  4. [ 編集 ]

!? 
LaoXiang from Xi'an
って誰のことだろう。

そして成績てなんだろう
めちゃめちゃ気になるー
  1. 2006/10/12(木) 17:30:43 |
  2. URL |
  3. 超旅行人 #mQop/nM.
  4. [ 編集 ]

成績ては夏学期科目の成績ですよ。以前の記事でこのことが触られたと思う。
LaoXiang...というのは自分も西安からやってくること。(面識ない人である)
  1. 2006/10/12(木) 18:33:07 |
  2. URL |
  3. ナナシ #-
  4. [ 編集 ]

あ、そうなんだ。
学校学部はぼくと同じですか?
東大経済の成績交付はまだだと記憶していますが、早まったのかしらん。

同郷なら、今度会ってください。
  1. 2006/10/12(木) 20:27:13 |
  2. URL |
  3. 超旅行人 #mQop/nM.
  4. [ 編集 ]

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